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エピソードには出典不明・諸説ある逸話が含まれます。
信長が乱世で抜きんでた活躍をした背景には、戦国武将で初めて兵農分離を推進したことであった。当時は一般的には兵農未分離で、平事は農民で戦いの時のみ武装するという形だったが、信長はまず各々の家の二男・三男を親衛隊とし、次第に有事の割合を増やし職業軍人を増やしていった。
これにより、それまで農閑期しかできなかった戦いがいつでもできるようになり、さらに武士を城下に住まわせるようにし、城を移すことを可能にした。
信長が勝ち進んだ要因の一つに、実力第一の人材抜擢法があった。従来家臣の働きの評価は武功が第一で戦場でどれだけ戦功を上げたかによって評価されるのが常識であった。秀吉の様に決して武闘には不向きでも話術に秀で、戦いを有利に進める事の出来る秀吉を「槍の又左」と呼ばれた武功に秀でた前田利家より出世させていた。
さらに信長は北陸に柴田勝家、中国に羽柴秀吉、といった方面軍を置くことにより四国九州平定を視野に入れ、天下統一を目前にしていた。
人の世の50年は仏教における六欲天の最下位の下天でも一昼夜に過ぎないほど短いので、生あるうちにやるべきことを成し遂げるべき、桶狭間の合戦に出陣の朝に舞い歌った幸若舞「敦盛」の一節。
信長の最後の言葉としてあまりのも有名である。 周囲のただならぬ物音に目を覚ました信長に、側近の森蘭丸が明智光秀の謀反であるといった時に、発した言葉で、諸説あり、「光秀なら仕方ない」とするなら何か思い当たる節があったのか、光秀なら本望だという意味か真意は不明である。
奥州一の実力を持ちながらも、天下を取ることが出来なかった政宗。しかし、時の天下人と渡り合ったその外交手腕は見事であった。
秀吉よりの命令である小田原参陣に遅れる事件が起こった。実母・保春院が弟・小次郎に跡目を継がせるために正宗暗殺計画を企て、政宗は辛くも命拾いをし弟を斬殺し、母を米沢に追放した。そのため参陣が半年も遅れ、激怒した秀吉に首を討たれるかもしれないという時、政宗は決死の演出を試みる。
髪をかぶろにし、死装束の扮装で陣営の臨んだ。しかしながら対面はゆるされず、箱根・底倉に監禁される。その時前田利家に「田舎者ゆえ礼儀をわきまえない。千利休に茶の湯を習いたい」と願い出る。茶の湯を愛する秀吉に対する芝居である。秀吉は政宗に興味を持ち謁見を許され、大名として存在を認められた。政宗の芝居が見事に図に当たった。
人を思いやる気持ちが強くなると意見も言えなくなる。義理を重んじればと頑固になる。礼も過ぎれば無礼になる。弁が立つ人は、ともすると騙そうとする。信用し過ぎると裏切られる。という意味で、秀吉・家康と対峙した時に「天下人の力」知り、胸の中では高い志を持ちながら、日常の行動を戒める言葉である。
馬の上で活躍した青春の日々は遠く過ぎ去った。世は天下は泰平。髪の毛もすっかり白くなった。戦国の世を生き延びたこの身。これを楽しまないでどうしようか。
父・昌幸と共に各大名家を転々とし、幼いころから上杉景勝のもとに人質に出されていた。
関ヶ原の合戦では父と共に西軍として参戦。上田城に籠城し、3万の徳川秀忠軍をわずか3千の兵で打ち破った。
一躍その名を轟かせた大坂の陣では真田丸という出城を築き、ゲリラ戦で徳川軍を翻弄し、夏の陣では家康本陣に何度も突撃をかけ、馬印を倒し、一時家康に自害を決意させるほど追いつめる。最終的に数に勝る徳川軍に押され、安居神社(大阪市天王寺区)で休憩中に徳川軍の鉄砲隊に討たれる。
「関東の軍は100万人もいるのに、男らしい者は1人もおらん。」南河内・道明寺の戦いで殿軍を務め、伊達政宗が率いる騎馬鉄砲隊を打ち負かしたときに言い放った幸村らしい言葉と言えるでしょう。
「自分は秀頼公と約束をした。その約束の重さは、信濃一国は言うに及ばず、日本を半分下さるといっても約束を破るわけにはいかない。」大坂夏の陣で徳川側から「大阪城を出て徳川に味方すれば、信濃で4万石を与える」と申し出に対する返答である。義を重んじる幸村の気概を感じる。
「傾奇者(かぶきもの)」とは、異風を好み、常識に囚われない自由な生き方をする人々のこと。その代表格が前田慶次です。彼の傾きっぷりは単なるファッションではなく、常に「命懸け」の覚悟と美学に裏打ちされていました。
そんな慶次の逸話として最も有名なのが、天下人・豊臣秀吉との謁見です。当時、傾奇者の取り締まりは厳しく、下手をすれば即打ち首の時代。しかし慶次は、秀吉の前に恐れる風もなく、堂々と奇抜な姿で現れました。一説には、髷(まげ)を横に結い、猿の真似をして秀吉を煙に巻いたとも言われています。
周囲がハラハラする中、秀吉はその度胸の良さと、一切の卑屈さがない堂々とした態度を大絶賛。「これほどの男なら、天下を傾き歩いても苦しからず」と、日本で唯一、どんなに傾いてもお咎めなしとする「傾奇御免状(かぶきごめんじょう)」を慶次に与えたのです。権力に屈せず、己の美学を貫き通して天下人に認めさせた、慶次最高のハイライトと言えます。
歴史の教科書やゲームでは「前田慶次」でおなじみですが、史料を紐解くと、彼は驚くほど多くの名前を持っています。代表的なものを並べるだけでも、その人生の激動ぶりが伝わってきます。
前田利益(まえだ としかず / とします):本名(諱)。前田家の公式な史料によく登場する名前。
前田慶次郎(けいじろう):通称。私たちが呼ぶ「慶次」の元になった名。
穀蔵院飄戸斎(こくぞういん ひょっとさい):京都で文化人として過ごした時期の、なんとも風変わりな風流名。
龍砕軒不便斎(りゅうさいけん ふべんさい):晩年、米沢(山形県)で隠居生活を送った際の名。
なぜ、こんなに名前があるのか?
戦国武将が名前を変える(改名する)のは珍しくありませんが、慶次の場合は「自分のアイデンティティの模索と、世間からの逃避」が理由に挙げられます。
彼はもともと織田家の重臣・滝川一族の生まれですが、前田家の養子になり、後に家督相続を巡るトラブルで前田家を出奔(しゅっぽん)しました。つまり、「どこの誰として生きるか」が常に不安定だったのです。
特に「穀蔵院飄戸斎」というふざけたような名前(一説には、ひょっとこの仮面を被って風流を楽しんだからとも)は、武士という窮屈な身分を捨て、一人の自由な文化人として生きていくという、彼なりの強烈な皮肉とユーモアの表れだったと考えられます。名前の多さは、彼が駆け抜けた数奇な人生の足跡そのものなのです。
「愛」の兜に込められた、主君と領民への情熱
直江兼続といえば、兜の前立(まえだて)に掲げられた巨大な「愛」の一文字がトレードマークです。この「愛」は、現代の私たちが使う「ラブ(Love)」の意味だけでなく、戦国武将としての深い思想が込められていました。
具体的には、軍神である「愛染明王(あいぜんみょうおう)」や「愛宕権現(あたごごんげん)」の頭文字を取って神仏の加護を願ったとする説と、儒教の核心である「仁愛(じんあい)」、つまり人を思いやる政治を行うという決意の表れだったとする説があります。
兼続の生涯を見渡すと、まさにその双方の「愛」を実践した、驚異的なマルチタスクぶりが光ります。
鉄壁の「主君LOVE」:
幼少期から主君・上杉景勝の小姓として育った兼続は、景勝の「影」として生きました。豊臣秀吉から「自分の家臣になれば筑後(福岡県)30万石を与える」と直々にヘッドハンティングされた際も、「私は上杉景勝の家臣である」と一蹴し、上杉家への忠義を貫きました。
涙ぐましい「領民・家臣LOVE」:
関ヶ原の戦い後、上杉家は120万石から30万石(米沢)へと、領地を4分の1に減らされてしまいます。通常ならリストラ(家臣解雇)の嵐が吹き荒れる局面ですが、兼続は「一人も家臣のクビを切らない」と宣言し、全家臣とその家族、約3万人を米沢へ連れていきました。
米沢での奇跡の復興計画:
人口が急増した米沢で餓死者を出さないため、兼続は自ら鍬を握って新田開発を指揮しました。さらに、最上川の治水工事(今も「直江石堤」として残る堤防の建設)、凶作に備えた「おしょうしな(米沢弁でありがとうの意)」の精神に基づく救済制度の整備、藩の特産品となる植物(青苧や漆など)の産業育成まで行いました。
兼続の「愛」の活躍によってベースが作られた米沢藩は、家臣たちが貧しいながらも固い結束を保ち、江戸時代後期に上杉鷹山(ようざん)という名君によって見事に財政再建を果たすことになります。兼続の愛は、数百年後の上杉家をも救ったのです。
関ヶ原前夜の緊迫した政治情勢と真偽の行方
1598年の豊臣秀吉の死去後、徳川家康は五大老の規約を無視して婚姻関係を結ぶなど、天下の覇権に向けて動き出していました。これに猛反発したのが、五大老の一人・上杉景勝と、その執政である直江兼続です。
上杉家は会津120万石へ移封されたばかりで、領内の城郭改修や道路整備、武器の調達を進めていました。これを家康から「謀反の疑いあり」と詰問され、釈明のために上洛するよう要求されます。
この時、兼続が家康の使いに向けて放ったとされるのが、世に言う「直江状」です。
直江状の内容(要約)
「京都の公家たちが噂しているようだが、上方(京都・大坂)の武士が茶器を集めるように、田舎の武士が鉄砲や弓を集めるのは当然の備えである」「景勝に逆心などない。本当に謀反の疑いがあると言うなら、そちらが調査団を派遣すればよいではないか」
家康はこの書状を読んで激怒し、会津征伐(関ヶ原の戦いの引き金)を決意したとされています。
【直江状の真偽について】
結論から言うと、「家康へ送った手紙(原本)そのものは現存していないが、何らかの激しい反論状を送った事実は間違いない」というのが、現代の歴史学界での有力な見方です。
現在残っている「直江状」の写し(複製)は、後世(江戸時代など)に文章がドラマチックに改ざん・演出された可能性が高いと指摘されています。特に、家康を過度に挑発するような文言は、当時の外交儀礼(いくら対立していても一定の礼儀は保つもの)から外れすぎているためです。
しかし、上杉家が家康の上洛要求をはねつけ、堂々と対決姿勢を示した「挑戦状」のような外交文書が存在したことは歴史的事実であり、それが家康を本気にさせたのは確実です。
戦国時代、普段は田畑を耕し、戦(いくさ)が始まると駆り出される「半農半士」の足軽(農民足軽)は決して珍しくありませんでした。戦乱のドサクサに紛れて一端の武将へと成り上がる者もいましたが、秀吉の凄さはそこではありません。彼は、それまでの「日本の社会構造そのものを根本からひっくり返した」という点で、文字通り本物の、唯一無二の天下人でした。
そのスケールの大きさは、彼が全国一統の過程で行った数々の大改革に現れています。
太閤検地と石高制(こくだかせい):
それまでバラバラだった全国の田畑の面積や獲れるお米の量を、同じ基準の「ものさし」で徹底的に調査しました。そして土地の生産力を「石(こく)」というお米の単位で統一。これにより、国の財政基盤を完璧に把握し、税(年貢)の徴収をデジタル化するかのようにシステム化しました。
刀狩り(兵農分離):
「農民から武器を取り上げる」という一見シンプルな政策ですが、その本質は「武士」と「農民」の身分をハッキリ分けたことにあります。これによって農民の一揆を防ぐと同時に、農民が戦に出る必要をなくし、戦国時代の一因だった「誰もが武装する社会」に終止符を打ったのです。
国家の最高権力者としての振る舞い:
京都に豪華絢爛な「聚楽第(じゅらくだい)」を築き、後陽成天皇をお迎えして自らの権威を天下に見せつけました。また、キリスト教の拡大がヨーロッパ勢力による日本侵略につながると見抜くと、「伴天連(バテレン)追放令」を出し、宗教と政治の分離を図る冷徹なリアリストの一面も見せました。
晩年の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は多くの犠牲を伴い失政とも言われますが、「日本国内の覇権争い」で終わっていた戦国大名たちとは視座が異なり、「明(中国大陸)の征服」まで本気で視野に入れていたその野望は、良くも悪くも百姓出身とは思えないほど巨視的で、圧倒的なスケールでした。
信長から「サル!」と呼ばれていたイメージが強い秀吉ですが、同時代の目撃証言を見ると、それが単なるあだ名ではなかったことがわかります。
宣教師ルイス・フロイスは著書『日本史』の中で、秀吉の容貌を「身長が低く醜悪で、目が飛び出ており、ヒゲが少ない。片手には6本の指があった」と記しています。朝鮮の文官・姜沆も『看羊録』に「醜く身体も短小で、様子が猿のようだった」と書き残しています。利害関係のまったく異なる外国人が、揃って似たような描写をしているのは注目に値します。
ちなみに信長が秀吉の妻・おねへ送った直筆の手紙では、「あのハゲネズミ」という表現も使っており、近くで見ていた信長の目にはネズミのようにも映っていたようです。
フロイスの記録によれば、秀吉本人はこう語ったとされています。「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だ。しかし予の日本における成功を忘れるでないぞ」。自分の容姿を隠すどころか、むしろ自らのプロモーションに利用するあたり、さすが人の心を掴む天才です。
顔だけでなく、一瞬もじっとしていないエネルギッシュな身のこなしと、人の懐に飛び込む社交性が、いっそう周囲に猿を連想させたのでしょう。その親しみやすさと底知れない眼光を武器に武将たちの中を泳ぎ切ったことが、秀吉が天下人になれた一因だったのかもしれません。
鷹狩りと薬作りが家康の趣味として有名ですが、他にも猿楽、囲碁、将棋、香道があります。好きなものは南蛮銅やコンパス、鉛筆、眼鏡などに興味を惹かれその中でも時計が好きで砂時計や日時計を所有しており、日本最古の「家康公の洋時計」が現存しています。
桶狭間の戦い以降、敵対することになった武田信玄に苦しめられた徳川家康ですが、同時に尊敬する人物でもあったようです。戦術はもとより政治手腕など信玄から学ぶべき部分も多く、元武田氏の遺臣たちを家臣に組み込んでいます。信長のように身分や序列を無視することもなく秀吉のように財力と権力にものを言わせることもなく堅実な組織作りは天下人になる前から進められてきました。家康は倹約家としても知られており、倹約によって莫大な財産を築いたとも言われています。
上杉謙信の人柄を象徴する逸話として、最も有名なのが「敵に塩を送る」です。
永禄10年(1567)頃、武田信玄が今川氏との同盟を破ったことをきっかけに、今川・北条両家は海を持たない甲斐・信濃への塩の流通を止める「塩留め」を実施しました。塩は当時、人が生きるために欠かせない戦略物資。武田領の領民は深刻な塩不足に苦しむことになります。
これを知った謙信は、長年の宿敵であるにもかかわらず、越後から武田領への塩の流通を止めませんでした。「私が信玄と争うのは弓矢(戦)においてであり、米や塩で争うのではない」と語ったと伝えられています。
近年の研究では、実際に塩を「贈った」というより「通常の商取引を妨げなかった」というのが実態に近いとされますが、いずれにせよ、敵の領民を兵糧攻めのように苦しめる手段を潔しとしなかったのは事実。戦いはあくまで武士同士の正々堂々の勝負であるべきという、謙信の「義」の美学がよく表れた逸話です。この故事は現代でも「苦境にある競争相手を助ける」ことわざとして生き続けています。
謙信の旗印といえば、「毘」の一文字。これは仏教の守護神であり戦いの神でもある「毘沙門天(びしゃもんてん)」の頭文字です。
謙信は幼少期を林泉寺で過ごして以来、生涯にわたって深く仏教に帰依し、自らを「毘沙門天の化身」と信じていたと伝えられます。春日山城内には毘沙門堂を設け、出陣の前には必ず籠もって戦勝を祈願。家臣への重要な命令を毘沙門堂から発することもあったといいます。
その信仰は戦いぶりにも表れていました。生涯およそ70度の合戦に臨みながら、大敗はほとんどなしという驚異的な戦績。第四次川中島では武田信玄相手に乱戦を制し、晩年の手取川では織田軍を一蹴。同時代から「越後の龍」「軍神」と恐れられました。突撃の際に掲げた「懸かり乱れ龍」の旗は、これが立てば総攻撃の合図として敵味方に知れ渡っていたといいます。
注目すべきは、謙信の戦の多くが領土的野心ではなく「助けを求められたから」という大義名分で行われていることです。信濃を追われた村上義清のため、関東を追われた上杉憲政のため——。私利私欲のためには戦わないという「義の武将」としての生き方は、生涯独身を貫いた清廉な私生活とあわせて、戦国武将の中でも異彩を放っています。
元亀二年(1571年)北条氏康の死により北条氏と和睦し、その後上洛作戦を開始する。
元亀三年(1572年)三河三方ヶ原で徳川・織田連合軍に大勝し、朝倉義景・浅井長政と結び、将軍義昭を戴くことにも成功し、信長包囲網を築き、上洛まであと一歩のところで病死する。
信玄の寿命がもう少し長ければ、その後の戦国の勢力図は大きく変わっていただろう。信玄は武に秀でていただけでなく、帝王学を身につけた学識ある武将だった。
信玄は軍法を重視したが、その基本は大将の的確な指揮にあるとして、家臣への慈悲など、大将の心得を説いた。また大勝すれば慢心すると戒め、負けない戦いの巧みな作戦を駆使した。
「合戦は半分勝てばいい、7割勝てば中、全部勝てば逆に下だ」と信玄はいっている。半分勝てば後の半分をどう勝つか反省し、7割勝てば安堵し、全部勝てば驕り高ぶり油断すると、戒めを込めた言葉である。
これは下の句に「情は味方 仇は敵なり」と続いている。これは信玄の「分権と責任」を示す厳しい言葉で「家臣は自分の分身であり、与えられた仕事に対しては私と同じ責任を持て」という意味である。また信玄は大きな城を作らなかったが、戦いは守るものではなく攻めるものであり、そのためには大きな城は必要なく、常に攻撃のみを心がけよという事である。
三成が用いたと伝わる旗印です。「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は吉(幸福)になれる」という意味です。
"One for all, all for one."(一人はみんなのために、みんなは一人のために)に似通った言葉です。三成が理想としたのは、これが当たり前にできる世の中だったと考えられます。
秀吉は鷹狩りの帰りに喉の渇きを覚え、寺に立ち寄り、茶を所望しました。
寺小姓はまず、大きめの茶碗にぬるめのお茶を、次に一杯目よりもやや小さい茶碗にやや熱めのお茶を、最後に小ぶりの茶碗に熱いお茶を出しました。
まず喉の渇きを鎮めさせるためにぬるめのお茶を出し、後に熱いお茶を充分に味わせようとする寺小姓の心遣いだったのです。
これに感心した秀吉は、その寺小姓を家臣にしたといいます。それが後の石田三成です。
ある時、三成と吉継は同じ茶会に参加しました。茶会では一杯のお茶を一口ずつ回し飲みをするものだったのですが、らい病(ハンセン病)を患っていた吉継の顔から出た膿が茶に落ちてしまい、後の人たちは口をつけるのを嫌がり、飲むふりだけをしていました。しかし順番が回ってきた三成は一切躊躇することなく口をつけ、「飲み干してしまったので、もう一服点てていただきたい」と言ったそうです。
それ以降二人は厚い友情で結ばれたといいます。
明智光秀というと知略に優れた文化人、あるいは本能寺の変を起こした謀将というイメージが強い。\nしかし、当時の記録を読むと意外な姿が見えてくる。\n光秀はかなりの武芸者だった。\n\n伝承によれば、45メートル先の標的を鉄砲で撃ち抜いたという。また合戦では敵兵を馬上から引きずり下ろし、激しい乱戦の中で味方を助けた逸話も残る。\n特に有名なのは、敵に組み伏せられた味方を救うため、敵武者の兜の下部をつかんで力任せに引き倒したという話だ。さらに合戦中に敵の馬の鞍を引きはがしたとも伝わる。\nもちろん軍記物に由来する逸話も含まれるため誇張の可能性はある。しかし少なくとも、光秀が単なる机上の策士ではなく、前線で戦う武将として認識されていたことは確かだろう。\n本能寺の変の首謀者という印象が強すぎて忘れられがちだが、光秀は知略だけでなく武力も兼ね備えた戦国武将だったのである。
明智光秀は「三日天下」の人物として語られることが多い。しかし彼が統治した地域には、現在でもその功績が語り継がれている。\n\n丹波平定後、光秀は領内の治水工事や道路整備を進め、荒廃した土地の復興に力を注いだ。また年貢や諸役を軽減し、戦乱で疲弊した民衆の生活再建を支援したと伝えられている。\n現在の京都府亀岡市や、同じく丹波地方の福知山市では、光秀は今なお地域の発展に貢献した領主として評価されている。\n特に福知山では、光秀が築いたとされる 福知山城 が町の象徴となっている。郷土芸能である「福知山音頭」に登場する「ドッコイセー」という掛け声は、築城の際に石を運ぶ人々の掛け声が由来とする説もある。\n\n本能寺の変によって歴史の敗者となった光秀。しかし地域史の視点から見ると、その評価は決して「逆臣」の一言では片付けられない。領民の暮らしを立て直し、町づくりに尽力した統治者としての顔もまた、明智光秀の重要な一面なのである。
戦国時代では、武将が側室を迎えるのは一般的でした。かの織田信長や豊臣秀吉、徳川家康も多くの側室を持っていました。
そんな中、毛利元就は「妙玖」という国人の娘を正室に迎え、妙玖の存命中は1人も側室を迎えなかったとされています。
晩年に長男へ宛てた書状に「妻がしっかりと家を守ってくれているから、自分は外で力を発揮できるのだ」と打ち明けているほど、元就は妙玖を心から信頼し、愛していました。
権謀術に長けた人物と言われて、狡猾な人物を思い浮かべるのは一般的でしょう。
しかし、毛利元就は酒を吞まず、家臣を気遣い、どんなに身分の低い者にでも声をかける優しい性分だったと言われています。
そして、一族が一致団結することを心より望んでいました。元就が記したとされる全長約3メートルにも亘る三子教訓状には、14の心構えが綴られ、家族で一致団結して支えあっていかなければならないという内容を残しています。
毛利元就の逸話の中で、もっとも有名なのが「3本の矢」の話でしょう。
元就は、3人の息子に1本ずつ矢を渡し、折ってみるように言います。当然1本の矢は容易に折ることができます。元就は次に、3本ずつ矢を渡しました。さすがに3本の矢は容易には折ることはできません。
元就は「このように、1人では弱くとも兄弟3人で力を合わせれば、どんな困難に見舞われても乗り越えることができる」と、矢を例にして3人の息子たちに言って聞かせたとされています。
本能寺の変の報がもたらされた際取り乱す秀吉に対し、「君の御運開させ給うべき初めでございます」と秀吉に告げ、中国返しを進言する。
関ヶ原の戦いの後、「家康は『我が徳川家の子孫の末まで黒田家に対して疎略あるまじ』と3度手を取り感謝した」という長政の報告に対し、「何故空いた手で刺さなかった」と叱責した。野心家ぶりを表す話だが、後世の創作ともされている。
官兵衛は、「日本一頭の鋭い男」といわれ信長・秀吉・家康に警戒され続けていた。一方荒木村重に幽閉されていたせいで片足を悪くし頭髪も抜けていた。そんな自分の姿を見たとき「頭は良くても威厳に欠けるのではないか」と考え、家臣や他人に対してこういうことを告げ、「場合によっては、頭の鋭さより、自然な威厳のほうがまわりから敬愛の念を持たれる」考えたのである。長政が福岡城主になってからは、博多の街をよく歩いては住民の声を長政にもたらし、子供たちからも慕われていた。これは「徳をもって威厳をつくり出す」ということに努力した賜物である。
倹約家であり人望も厚かった事を裏付ける逸話も数多い。
不要になった物は家臣に払い下げていた。これは「くれてやりたいが、くれてやれる物は限りがあり、貰えなかった者は不平感が募るであろう。だから払い下げるのだ。こうすれば銭の無い者や銭を失いたくない者は買わぬであろう。こうして多少なりとも不公平にならずにしようと思うのだ」という考えのもと行っていたようである。
晩年は家臣に対して冷たく振舞ったが、これは当主の長政に家臣団の忠誠を向けさせるためであった。
坂本龍馬には3人の姉(千鶴、栄、乙女)がいましたが、その中でも3女の乙女と特に親しかったようです。
幼少時は泣き虫で弱虫のひ弱な少年だった龍馬は、実母の幸を10歳の時に病気で亡くしてから、母代わりの乙女から様々なことを教わりました。
乙女は身長176cm、体重110kgを超えていたため、当時としては尋常ならざる体躯でした。剣術にも秀でていたため、伝説では龍馬の剣術師範を務めたとも語られています。乙女には、細かく近状を報告していたようで、16通にも及ぶ乙女宛の手紙の中には、有名な「日本を今一度洗濯いたし申し候」の言葉も。
龍馬は生涯において乙女への感謝を忘れませんでした。
様々な小説の題材ともなっている坂本龍馬のイメージは「幕末のヒーロー」「改革児」のようなかっこいいイメージが多いかと思いますが、実際の龍馬には教科書には乗らないような意外な一面があったようです。
龍馬は大の風呂ギライだったそうで、体臭をごまかすために、オーデコロンをつけていたと言われています。当時外国人は風呂に入らないのが当たり前だったので、逆に毎日風呂に入る日本人の習慣が不思議で仕方がなかったのだとか。
周囲の人間からは不潔すぎるため、2メートル以内に近づくなと言われていたそうです。
近藤勇は、幼少の頃から源義経、楠木正成などの武将が登場する軍談を読み聞かせられていました。中でも、三国志に登場する「関羽」に並々ならぬ憧れを抱き、その時分は関羽が存命していると思いながら育ったといいます。近藤と関羽には共通している点があります。それは、一人の主に忠義を貫き通したということです。
関羽は身代わりに捕虜となって劉備を守り続け、曹操など、他の人物に仕えることはありませんでした。そして近藤も、新選組の局長となってからは会津や幕府に忠義を尽くしました。
負けることがわかっている戦に挑み、最終的には打ち首に処されてしまいます。これは関羽の死に際とも非常に似通っており、このことから近藤にとって、かの武将は師にも近い存在だったと考えられます。
近藤勇といえば、こぶしを口に入れられるほどの大口だったといいます。あるとき、近藤は支援者である佐藤を訪ねて、現在の神奈川県相模原市にあった上溝を訪れました。その際に佐藤家で、蘭方医の鷹取胖斉に出会いました。彼も近藤に負けず劣らずの大男だったとされています。
佐藤の提案により、2人は「とろめしの大食い競争」をすることとなりました。とろめし好きだった近藤は19椀を食べたそうですが、鷹取の20椀には及ばず惜しくも敗北したそうです。
天然理心流門人であり遠縁にあたる小島鹿之助の隣人、橋本家の沢庵が気に入ってしまった歳三。たらふく食べたのちに樽ごと沢庵を持ち帰った。
また小島鹿之助のもとに歳三から荷物が送られてきた。中身は彼を慕う芸者や舞妓からの恋文が満載されており歳三から「あまりにもモテてしまって国に仕える大事な仕事を忘れてしまいそうだ」と添えられていた。
小島鹿之助は近藤勇や土方歳三との文通を絶やさず良き相談相手で、彼らの死を悼み「殉節両雄之碑」を建て、のちに本も執筆している。
土方歳三が使っていたとされる刀剣は多く残っており、葵御紋の入った「越前康継」、寸違いを複数所持していたとされる「和泉守兼定」、戊辰戦争で使用されたとされる「大和守源秀國」がそれぞれ現存している。和泉守兼定は土方歳三資料館、大和守源秀國は霊山歴史館、葵紋越前康継は佐藤彦五郎新選組資料館でそれぞれ展示されている。
沖田総司と聞いて、まず思い浮かべるのが「人当たりの良い好青年」「剣術の達人」「夭逝した美剣士」というものの方は少なくないはずです。しかし、普段はニコニコしていた沖田も剣を指導する場になると、途端に荒っぽく怒りやすくなったといいます。
「太刀を損じれば、小刀を使いなさい。小刀を損じれば鞘で、鞘を損じれば素手で戦いなさい。戦場では誰も待ってくれないのです」
これは沖田総司の名言の一つです。厳しい言葉のようにも思えますが、門弟が実戦で命を落とさないように、という沖田の優しい心遣いが感じられる言葉なのです。
沖田総司は新選組の隊士でも特に、新選組や近藤勇を愛していました。
沖田の剣術の型は師匠である近藤と瓜二つで、掛け声まで似ていたと言われています。そんな近藤や新選組に敵対したものに対して、沖田は一切の容赦もなく攻撃的になったとされています。
沖田総司は「病弱で色白の美剣士」として、創作の世界のなかではすっかりキャラクターが定着していました。それだけに、沖田のものとされる肖像画を見て衝撃を受けた人も多いのではないでしょうか。
この肖像画は、沖田総司の姉ミツが、自分の孫が沖田総司に似ていると証言したことから、その孫をモデルに1929年(昭和4年)に描かれたもので、沖田総司本人ではないのです。
明治・大正期の小説家「子母澤寛」が記した「新選組遺聞」のなかで、斎藤一本人の貴重な実践記録の談話が採録されています。
斉藤によると、実際の斬り合いの場では「相手がこう来たら、こう払ってこう返す、こう切り込んでいくなどということは不可能」であり、「夢中になって斬り合うのが実際」なのだとか。
斎藤一と聞いてまず、左利きの剣士が思い浮かぶ人は少なくないはずです。しかしこれは、信憑性が低い情報なのだそうです。当時は左利きで相手をするのはたいへん非常識で無礼なことで、仮に左利きであったとしても刀を握る時は右に直すのが当たり前でした。
このことから、現代の創作で斎藤一が左利きとして描かれているのは、「単純にそちらの方が格好良いのでは」という作家たちのイメージや好みによるものでしょう。
晩年の斎藤一は、警視庁を退職してから、東京高等師範学校附属博物館の看守を務めました。しかし、実質的には剣道師範の役割であったとされており、斎藤一改め藤田五郎が竹刀を構えると、誰一人としてその竹刀に触れられなかったのだそうです。
新選組三番隊組長斎藤一の剣術が、晩年に至るまで衰えなかったことを証明するような逸話です。
木下家定が姫路城城主だった時分、宮本武蔵は名を伏せて足軽奉公をしていました。その頃城内では天守に妖怪が出るという噂が広まっており、それを恐れた他の奉公人は城の見張り番を勤めることができず、警備すらままならない状態だったのです。
しかし、宮本武蔵だけが妖怪を恐れる様子も見せず、平気で見張り番の仕事をこなしていたので、家老はその正体を宮本武蔵であると見破り、妖怪退治を命じます。
武蔵は提灯を手に、暗闇の中の天守閣に登っていきます。階層を上がるたびに激しい炎と轟音に襲われましたが、武蔵が太刀に手をかけると、それらは収まりました。
天守閣で妖怪が現れるのを待っていると、妖怪ではなく美しい姫が姿を現しました。「わたしは姫路城の守り神、刑部明神です。今夜あなたが来てくれたおかげで、城に巣食う妖怪は逃げていきました。褒美としてこの剣を与えましょう」と言い、郷義弘の名刀を武蔵に残していったのです。
宮本武蔵といえば二刀流を使いこなす武術の達人としてのイメージが強いと思いますが、晩年は芸術家としての一面も持ち合わせていました。
特に水墨画が一番多く残っており、「芦雁図」「紅梅鳩図」「枯木鳴鵙図」などは重要文化財に指定されています。
一瞬の動きをとらえた描画には、武術に長けていた武蔵が体得した「観見二眼」にどこか通じるものがあるのかもしれませんね。
奈良市柳生町の戸岩谷の奥「天石立神社」には2つに割れた巨石があります。アニメ「鬼滅の刃」の聖地として有名になりましたが、実はあのシーンは宗厳のある伝説をもとにしているのです。
宗厳の腕前の噂が大和に広まり、方々から名のある剣客が柳生を訪れましたが、宗厳に勝てる者は一人もいませんでした。
しかし、東国からやってきた上泉信綱(本名:上泉伊勢守秀綱)の前では、一本を取られてしまいます。新陰流を編み出した名人の技に言葉を失った宗厳は、その場で弟子入りを志願し、日々修行に励みました。
そんなある夜、天狗が現れ宗厳に襲い掛かります。宗厳が天狗を一刀のもとに斬り捨てると、そこに天狗の姿はなく、傍にあった大きな石が真っ二つに斬られていました。
それからその石を「一刀石」と呼ぶようになり、今でも天狗のつけた傷跡が残っているそうです。
戦国時代、大和国(現在の奈良県)の豪族であった柳生宗厳(やぎゅう むねよし/後の宗章)は、近畿でも一目置かれる剣の達人でした。しかし、彼の運命は1564年、ある一人の怪物との出会いによって180度変わることになります。
その人物こそ、関東からやってきた「剣聖」上泉信綱(かみいずみ のぶつな)です。
剣聖との出会いと「新陰流」の誕生
宗厳は信綱に対して自信満々に試合を挑みましたが、信綱の弟子(一説には甥の疋田文五郎)に手も足も出ず惨敗。さらに信綱本人と手合わせた際には、その圧倒的な技量に言葉を失い、その場で平伏して弟子入りを志願したと伝わります。
信綱が創始した「新陰流」は、それまでの「敵を殺傷すること」を主目的とした古流剣術とは一線を画していました。信綱は、竹を割って革で包んだ「袋竹刀(ふくろしない)」を考案し、怪我を恐れずに本気で打ち合える合理的な稽古法を確立。相手の動きを予測し、その力を利用して制する、極めて先進的なメカニズムを持つ剣術でした。
宗厳は柳生の里に信綱を招いて猛特訓を重ね、わずか1年ほどで新陰流の最高奥義を伝授され、のちに新陰流の正統を受け継ぐことになります。これが、後に徳川将軍家の御家流となる「柳生新陰流」の礎です。
信綱から課された最大の宿題、そして新陰流がたどり着いた究極の境地が「無刀取り(むとうどり)」です。
無刀取りとは、文字通り「自分が武器(刀)を持たない状態で、刀を持った相手に勝つ」という超高等技術です。決して「丸腰で無謀に突っ込む」という意味ではありません。
無刀取りの本質
「刀を持たないことで、相手に『今なら斬れる』という油断や隙(心の隙間)を生じさせる。相手が斬りかかってくるその初動を見極め、懐に飛び込んで相手の刀を奪う、あるいは無力化する」
これは、新陰流の根本思想である「活人剣(かつにんけん:人を活かす剣)」を体現したものです。敵を殺すのではなく、相手の攻撃性を無効化して戦いを終わらせる。
宗厳はこの「無刀取り」を完成させ、のちに徳川家康の前で披露して大絶賛を受けました。武器を捨ててなお相手を制するこの技は、戦国という力の世界から、平和な江戸の治世へと時代が変わる象徴的なマスターピースとなったのです。
戦国時代の剣豪と聞くと、多くの人は華麗な剣技で敵を次々となぎ倒す姿を想像するかもしれない。
しかし、塚原卜伝という人物を調べると、そのイメージは少し変わってくる。
卜伝は鹿島の武士として生まれ、諸国を巡りながら剣の修行を積んだ人物だ。伝承によれば、19回の合戦と37度の真剣勝負を経験しながら、一度も敗れなかったという。
もちろん、戦国時代の記録には誇張も少なくない。数字そのものが事実かどうかは慎重に考える必要があるだろう。
だが、たとえ半分だったとしても十分に異常だ。
当時の戦いは、時代劇のような一対一の立ち会いではない。槍が飛び交い、矢が降り注ぎ、複数の敵に囲まれることも珍しくなかった。そんな時代に何十年も戦い続けること自体が難しい。
だからこそ卜伝の評価は、「何人斬ったか」ではなく「なぜ死ななかったのか」に向けられる。
後世には「一の太刀」という言葉も伝わる。必殺技の名前のように聞こえるが、その本質はおそらく派手な剣術ではない。勝負が長引けば、それだけ自分も危険になる。ならば最初の一撃で決着をつける。あるいは決着をつけられない戦いなら避ける。
そこには剣豪というより、生存のための合理的な戦術家の姿が見える。
現代では「強い人」と聞くと、他人に勝つ人を思い浮かべがちだ。しかし戦国時代の本当の強者は違ったのかもしれない。
勝ち続けた人ではなく、生き残り続けた人。
塚原卜伝の伝説は、そんな当たり前でいて忘れがちな事実を思い出させてくれる。
塚原卜伝には「無手勝流」の逸話が残されている。
船旅の途中、腕自慢の武士から勝負を挑まれた卜伝は、自らの流派を「無手勝流」と名乗った。
興味を持った相手と無人島で決闘することになった。しかし相手が先に島へ降り立った瞬間、卜伝は船を沖へ向けて漕ぎ出す。取り残された相手に向かって、こう言ったという。
「戦わずして勝つ。これが無手勝流だ。」
剣豪らしからぬ話である。
だが、この逸話は卜伝の人生を知ると違った見え方をする。
卜伝は生涯に三度、諸国を巡ったと伝わる。現代のような鉄道も自動車もない時代だ。徒歩を中心に各地を歩き、武芸者と交わり、合戦を見聞きし、時には自らも戦った。
若い頃の卜伝は、おそらく誰よりも勝負にこだわった人間だっただろう。
しかし多くの戦いを経験するうちに、一つの事実を知る。
勝負には勝者と敗者がいる。
だが戦いには、勝者であっても死ぬことがある。
どれほど腕が立とうと、偶然の一撃や仲間の加勢一つで命を落とす。それが戦国時代だった。
だから卜伝が目指したのは、相手を倒すことではなく、自分も相手も傷つかずに終わることだったのかもしれない。
無手勝流とは剣を捨てる流派ではない。
剣の怖さを知り尽くした者が辿り着いた、最後の剣術なのである。