戦国時代では、武将が側室を迎えるのは一般的でした。かの織田信長や豊臣秀吉、徳川家康も多くの側室を持っていました。
そんな中、毛利元就は「妙玖」という国人の娘を正室に迎え、妙玖の存命中は1人も側室を迎えなかったとされています。
晩年に長男へ宛てた書状に「妻がしっかりと家を守ってくれているから、自分は外で力を発揮できるのだ」と打ち明けているほど、元就は妙玖を心から信頼し、愛していました。
権謀術に長けた人物と言われて、狡猾な人物を思い浮かべるのは一般的でしょう。
しかし、毛利元就は酒を吞まず、家臣を気遣い、どんなに身分の低い者にでも声をかける優しい性分だったと言われています。
そして、一族が一致団結することを心より望んでいました。元就が記したとされる全長約3メートルにも亘る三子教訓状には、14の心構えが綴られ、家族で一致団結して支えあっていかなければならないという内容を残しています。
毛利元就の逸話の中で、もっとも有名なのが「3本の矢」の話でしょう。
元就は、3人の息子に1本ずつ矢を渡し、折ってみるように言います。当然1本の矢は容易に折ることができます。元就は次に、3本ずつ矢を渡しました。さすがに3本の矢は容易には折ることはできません。
元就は「このように、1人では弱くとも兄弟3人で力を合わせれば、どんな困難に見舞われても乗り越えることができる」と、矢を例にして3人の息子たちに言って聞かせたとされています。