毛利元就
毛利元就
1497-1571
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生い立ち

1497
安芸国の国人領主・毛利弘元の次男として生まれる
1501
福原広俊の娘であった母が病没
1506
父・毛利弘元が酒毒で死去。孤児となり「乞食若殿」と呼ばれるが、父の継室・杉大方により養育される
1511
元服を行い、幼名・松寿丸を改め、毛利元就を名乗る
1516
長兄・毛利興元が父と同じ酒毒で急死。幼い嫡男の叔父として後見人となる
1523
幸松丸が病気で他界し、毛利家の家督を継ぐ
1535
安芸・備後・石見の盟主となり、一気に領国を拡大する
1546
前年に妻・妙玖、養母・杉大方を相次いで亡くし、長男・隆元に家督を譲る
1562
一代で中国地方を代表する大名となる
1571
吉田郡山城にて病没(享年75歳)

エピソード

戦国時代の愛妻家

戦国時代では、武将が側室を迎えるのは一般的でした。かの織田信長や豊臣秀吉、徳川家康も多くの側室を持っていました。
そんな中、毛利元就は「妙玖」という国人の娘を正室に迎え、妙玖の存命中は1人も側室を迎えなかったとされています。
晩年に長男へ宛てた書状に「妻がしっかりと家を守ってくれているから、自分は外で力を発揮できるのだ」と打ち明けているほど、元就は妙玖を心から信頼し、愛していました。

一族の団結を願った

権謀術に長けた人物と言われて、狡猾な人物を思い浮かべるのは一般的でしょう。
しかし、毛利元就は酒を吞まず、家臣を気遣い、どんなに身分の低い者にでも声をかける優しい性分だったと言われています。
そして、一族が一致団結することを心より望んでいました。元就が記したとされる全長約3メートルにも亘る三子教訓状には、14の心構えが綴られ、家族で一致団結して支えあっていかなければならないという内容を残しています。

三本の矢

毛利元就の逸話の中で、もっとも有名なのが「3本の矢」の話でしょう。
元就は、3人の息子に1本ずつ矢を渡し、折ってみるように言います。当然1本の矢は容易に折ることができます。元就は次に、3本ずつ矢を渡しました。さすがに3本の矢は容易には折ることはできません。
元就は「このように、1人では弱くとも兄弟3人で力を合わせれば、どんな困難に見舞われても乗り越えることができる」と、矢を例にして3人の息子たちに言って聞かせたとされています。

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