本能寺の変の報がもたらされた際取り乱す秀吉に対し、「君の御運開させ給うべき初めでございます」と秀吉に告げ、中国返しを進言する。
関ヶ原の戦いの後、「家康は『我が徳川家の子孫の末まで黒田家に対して疎略あるまじ』と3度手を取り感謝した」という長政の報告に対し、「何故空いた手で刺さなかった」と叱責した。野心家ぶりを表す話だが、後世の創作ともされている。
官兵衛は、「日本一頭の鋭い男」といわれ信長・秀吉・家康に警戒され続けていた。一方荒木村重幽閉されていたせいで片足を悪くし頭髪も抜けていた。そんな自分の姿を見たとき「頭は良くても威厳に欠けるのではないか」と考え、家臣や他人に対してこういうことを告げ、「場合によっては、頭の鋭さより、自然な威厳のほうがまわりから敬愛の念を持たれる」考えたのである。長政が福岡城主になってからは、博多の街をよく歩いては住民の声を長政にもたらし、子供たちからも慕われていた。これは「徳をもって威厳をつくり出す」ということに努力した賜物である。
倹約家であり人望も厚かった事を裏付ける逸話も数多い。
不要になった物は家臣に払い下げていた。これは「くれてやりたいが、くれてやれる物は限りがあり、貰えなかった者は不平感が募るであろう。だから払い下げるのだ。こうすれば銭の無い者や銭を失いたくない者は買わぬであろう。こうして多少なりとも不公平にならずにしようと思うのだ」という考えのもと行っていたようである。
晩年は家臣に対して冷たく振舞ったが、これは当主の長政に家臣団の忠誠を向けさせるためであった。