元亀二年(1571年)北条氏康の死により北条氏と和睦し、その後上洛作戦を開始する。
元亀三年(1572年)三河三方ヶ原で徳川・織田連合軍にに大勝し、朝倉義景・浅井長政と結び、将軍義昭を戴くことにも成功し、信長包囲網を築き、上洛まであと一歩のところで病死する。
信玄の寿命がもう少し長ければ、その後の戦国の勢力図は大きく変わっていただろう。 信玄は武に秀でていただけでなく、帝王学を身につけた学識ある武将だった。
信玄は軍法を重視したが、その基本は大将の的確な指揮にあるとして、家臣への慈悲など、大将の心得を説いた。 また大勝すれば慢心すると戒め、負けない戦いの巧みな作戦を駆使した。
「合戦は半分勝てばいい、7割勝てば中、全部勝てば逆に下だ」と信玄はいって言っている。半分勝てば後の半分をどう勝つか反省し、7割勝てば安堵し、全部勝てば驕り高ぶり油断すると、戒めを込めた言葉である。
これは下の句に「情は味方 仇は敵なり」と続いている。これは信玄の「分権と責任」を示す厳しい言葉で「家臣は自分の分身であり、与えられた仕事に対しては私と同じ責任を持て」という意味である。また信玄は大きな城を作らなったが、戦いは守るものではなく攻めるものであり、そのためには大きな城は必要なく、常に攻撃のみを心がけよという事である。